よく頑張った

年が明けて4ヶ月が経とうとしているけど、あけましておめでとうございます。


『岳』という漫画がある。

岳 (1) (ビッグコミックス)

岳 (1) (ビッグコミックス)

世界の名峰をいくつも登り日本に帰ってきた島崎三歩。
彼の日本アルプスでの山岳救助ボランティアとしての生き様を描く物語。


島崎三歩が危険を冒して救助要請者のもとに辿り着いた時(彼らは既に亡くなっていることも多いのだが)、いつも大声でいう言葉があって、

「よく頑張った!!」「山に来てくれてありがとう!!」

と。その言葉は彼らの様々な思いを一瞬にして浄化する。登頂の感動、一転して生死の境で味わった極限の緊張感・不安・後悔、肉体的な苦痛、これで助かったという安心感、自分が求めた登山の代償として支払われたあまりにも多大な労力に対する面目のなさ(時にはそれが遺書に記されている)。そういうものを全て受け入れて三歩はよく頑張ったと大声で言い放つ。そのとき、もう何というのか、ぐわっとこみ上げてくる。

三歩の言葉によって浄化されている「もの」は何なのだろう。価値判断だ。成功ではなく失敗をし、快楽ではなく苦痛を得、人には感動ではなく迷惑を与え、価値ではなく損失を生んだ、そういう価値判断による迷いや後悔を三歩の言葉はぶった切って飛び越える。そのときにこみ上げてくるのが、ああそうだよねって思いなのではないか。

現代の価値判断の基準として最も一般的なものの一つは貨幣だ。そのような枠のなかにある社会では、最終的に貨幣価値という成果を生まないものはいつもどこか軽視される。自分だってそのなかに生きているのでその感覚は骨身に沁みているというか、正確には専らそのなかに埋没している。でも人間にはその枠が取っ払われる瞬間というのがあって、そういうときには誰しも何かちがくねえかと思う(もちろん、豊かさそれ自体を否定するわけではなくて)。

ともあれ、既成概念を壊すような何かが始まるとしたらそういう「何かちがくねえか」という違和感や絶望感からだ。枠に寄り添いたいのが人間の弱さだし、それを自らぶち壊せるのが人間の強さだよねって書いて、先日の村上春樹のスピーチを思い出した。とてもいいスピーチなので読んだことない人は是非とも。


村上春樹、エルサレム賞受賞スピーチ試訳 ー 極東ブログ

「私が、高く堅固な一つの壁とそれにぶつけられた一つの卵の間にいるときは、つねに卵の側に立つ。」

ええ、壁が正しく、卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます。何が正しくて何が間違っているか決めずにはいられない人もいますし、そうですね、時の流れや歴史が決めることもあるでしょう。でも、理由はなんであれ、小説家が壁の側に立って作品を書いても、それに何の価値があるのでしょうか。


何が正しくて何が間違っていようと、何が価値で何が無価値だろうと、そんなもの飛び越えて「お前はよく頑張った」って。